千姫とその時代の小袖 「近日公開予定!!」
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なぜ私たちは『千姫』に魅せられるのか
徳川家康の孫娘で母は織田家の流れ、そして自身は豊臣秀頼の妻(秀吉の命による)という日本史で最も有名な将軍たちの名前が飛び交うその渦中から人生をスタートさせます。
慶長八年(1,603年)七歳の時、千姫は豊臣秀頼に嫁ぎ大阪城へ。
大阪夏の陣(1615年)19歳で豊臣家は滅亡。燃える大阪城から父、秀忠のもとに救い出されます。
(この大阪夏の陣については美空ひばりさんが演じられた『千姫』をはじめ、様々な映像化・舞台化がされています)
大阪城から江戸に届けられる道中、桑名の七里の渡し船中で本田忠刻との出会い、恋に落ちたと言われています。
本田忠刻を『選んで』
1616年千姫〔20歳)本田忠時に嫁ぎ、桑名城へ
1617年(21歳)本多家が姫路に転封 姫路城へ
1618年(22歳)長女勝姫誕生
1619年(3歳)長男幸千代誕生
という
おそらく千姫にとって最も幸福だった時期が姫路城にいた時代であり、
彼女のスーパーセレブな逸話も残っており、なんとも興味深いのです。
しかし、長男が亡くなります。
1621年(25歳)幸千代没
この頃から千姫は本田家の繁栄を祈って化粧櫓から望む男山に天満宮〔千姫天満宮〕を建立し朝夕祈りを捧げるようになっていたと言われています。
さらに長男だけでなく、夫も亡くします。
1626年(30歳)忠時没 江戸城へ出家する
1666年(70歳)落飾して天樹院と号す。娘の勝姫を鳥取藩主の池田光政に嫁がせ、実の弟3代将軍の家光、4代将軍家綱の相談相手として一族を支える。激動の戦国時代に翻された人生でしたが太平になった世を目にしてから、その最後を迎えた。
姫路城と千姫
世界遺産姫路城は建築の美、そして姫路城を支えてきた職人たちの高度な技術を観ながら歴史をたどることができます。
しかし、そこには生活感や時代を感じれる衣、食、住を感じれるところが少ない事に残念に思っていました。
わずかに伝わる資料からその実像をとらえる事は容易ではありませんが、調べていく中で関連する地域の文化財にもふつふつと興味が湧き上がり、抑えきれないロマンに魅せられてしまったのです!
そこで、貴重な資料の絵画(弘経寺に収められた希少な千姫の肖像画)に
出てくる衣装を蘇らせることにしました。
もちろん、時代考証をした衣装や化粧、髪型まで再現可能な限り再現いたします。
衣装は古文書を元に製作したので、身長156cmぐらいまでの方限定サイズです。
身につけた人だけが感じられる体感型、体験型歴史にタイムトリップのご提案です。
現在の着物に進化した小袖は、なぜ身幅が広いのでしょうか?
現代で女性があぐらをくむとお行儀が悪い!とか言われますよね?
昔は女性もあぐらをくんだ生活様式だったとか?
急に話は急ぎましたが、なぜあぐらをくまなくなったのでしょうか?
なぜ怒られるようになったのでしょうか?などなど、歴史を話しながらお楽しみ下さい。
きっと、歴史の深さを知るともっともっと歴史にはまりますよ。
156cm以上のお客様は、昔の人はこんなに小柄だったのか?
なんて知るのもまた面白さを感じられると思いますよ。
衣装について
千姫の菩提寺 弘経寺(ぐぎょうじ)常総市に伝えられてきた『千姫姿絵』描かれてる衣装を再現しました。
少し詳しくお話しします。
髪型、眉の書き方、着用している小袖は江戸時代寛文期に書かれたと思われます。
この時代小袖を何枚か重ねて着る姿が武家の標準的にな装いとなっています。
右手を肘掛に、左手を膝の上にのせ、立膝すわりをしている。
打掛けは地黒に雲形の匹田鹿の子に徳川の三葉葵紋を散らし、裾には摺箔金の菖蒲をほどこし金の刺繍で豪華な打ち掛けです。
間着(なかぎ)は枯色に胸元には藤の紋様に裾は露草色の亀甲紋様、かすかに袖口からもう2枚の柄がみえる。
下着に紅色地金摺箔牡丹唐草紋様の肩裾柄の小袖、帯は四割、御所風の髪型で名前の通り、御所の女官などがしていた下げ髪から変化したもので、毛先を根に巻きつけたもので解けばすぐに下げ髪になる武家上流階級の髪型であった。
その後、遊女もなども結うようになったのだが、流行の伝播は上流階級からといわれている。
髪型には公家と武家のスタイルが違っていた。
甦る千姫プラン「近日公開予定!!」
以上、私ども夢織館にとっても特別な思入れとこだわりのおすすめプランになります。
本格的な白塗りメイク、小袖に四割帯で変身していただけます。
プロカメラマンによる撮影付き、様々なアングルでお撮りさせていただけます。